<一・弟に申し伝え候>
信長は海を寄せ
秀吉は海を越え
家康は海を閉じた。
天正六(1578)年九月三十日。
信長は、まさに海寄せの真っ最中であった。
傾いた船からバラバラと水夫が落ちた。
他の小姓と岸壁で油断なく警護をしていた蘭丸は、一瞬ヒヤリとしたが動揺は顔に出さなかった。
落ちた水夫を九鬼嘉隆の配下が縄を投げて助け、喜色満面で信長の前に勢揃いしたことで、水泳技術のパフォーマンスだとわかったからだ。
木曽川の荒波にもまれていたゆえ水泳が達者な蘭丸は、小姓たちの間で〝河童〟の異名を頂戴している。海に落ちた人を救助するのは、造作もない。飛び込んで、余裕で助けられる。それゆえ、『縄を投げて』助けるという発想はなかった。
しかも今、信長の背後で太刀を持っているわけではないのだ。
当の信長は九鬼嘉隆の案内で一人で大船に乗り込み、ご気嫌であった。
海賊大名の異名を持つ九鬼嘉隆は、二年前の木津川口の戦いで、毛利水軍、石山本願寺の連合軍の前に負けている。後がない状態だった。そのために配下たちを叱咤激励――など、生優しいやり方で進めず、怒鳴り、時にはぶっ飛ばし、荒っぽく束ねていた。
九月三十日の信長の堺大船検分は、その仕上げだ。
九鬼嘉隆と配下たちは大船小舟が堺の港に集結し、のぼり多数をたて、華々しいデモンストレーションをした。
三日前、信長が安土城を出発した時から、蘭丸も一緒だった。
春先から小姓としている坊丸は、城に残されていた。堺への供小姓は、同じ家中の者はできるだけブッキングしないように編成されている。
「わたしのことなら、御放念くだされ。蘭兄様が、つつがなくお仕事を終えられますように」
坊丸は慎ましく、森屋敷で蘭丸を見送った。
<二・信玄VS長可>
高遠城(長野県伊那市)の城主、仁科盛信は、一五八二年三月二日、自城で織田軍迎撃戦を指揮した。
<三・千丸出仕>
織田信長は三月五日に安土城を出発、甲斐に向かった。
<四・一五八二年六月二日>
(急いで帰れば)
<五・信濃撤退戦>
「申し上げます!」
<続>