<序・側室の子>
馬が出ていかない。
それだけで江戸森屋敷の者、全てが悟った。
香々美が静かに厩舎に行くと、重政は笑顔を向けてきた。
「母上」
彼女も悟った。
息子は昨日までの息子ではない。
毎朝馬で遠出をしていた重政が、厩にいるもののいっこうに乗馬する気配がない。「忠政様の御子息の中では、長可様に一番似ておられる」という家臣の評価がお世辞なのは重政本人もわかっていた。それでも嬉しいらしく、毎日執務の前に弓の稽古を忘れたことがない重政が、ぼんやりと佇んでいる。
―香々美は無言で厩の傍らの縁まで来ると、沈痛な表情で座った。
昨日までは「無関係な御方はお控えなされ」止める取り巻きがいた。今は誰もいない。
皆もいたたまれなくなったのであろう。
うららかな陽射しである。
「い―い天気だ。このまま眠りたくなる」
「……重政」
息子を正視できない。畳に視線を落とし、沈黙するしかない。
痛いほどの時間が過ぎた。
「……重政」
「なんです?」
「…………殿と忠広様が――」
重政は地面に座りこんだ。姿勢も崩し、左足など立て膝、半目で虚ろに弓場を見ている。
「存じております。今朝方、父上から伝えられました」
香々美は、いっそう視線を落とした。
「……忠広様が従五位下に任じられるそうですね……」
「まこと御家の誉れでござる」
若干、茶化すようだ。
香々美は身の置き所がない。
本日、二男十二歳の忠広は従五位下に任じられる。長男で二十一歳の重政は、無位無冠である。
内外に、次代当主は忠広だと宣言したことになる。
重政は当主の座からは外れたのだ。
「重政……この身が家臣の出でなくば……」
香々美は、家臣の山内之豊の娘である。豊臣秀長の養女、名古屋山三郎を兄にもつ、華やかな岩にたちうちできるわけがない。
それでも重政は、長男である。そして実力がモノをいう戦国の気風が濃厚に残っていた。
軽輩の出でも当主に就けるかもしれぬ。
馬に乗り、弓に励み、真面目に執務をこなしてきた。
今朝、父に
「本日、忠広が従五位下に任じられる」
伝えられるまでは。
<一・七夕>
寛永三年一月十四日。
<二・後継者おらず>
七夕の日。天の川の橋となるカササギに乗り、二度と帰ってこなかった。
<三・長く継ぐ>
兵助を「大樹のような存在感がない」と評したのは梅であった。
<四・お犬様の御屋敷>
「叔父御は一途だな」
<五・当主発狂>
帳場、小屋――人間が住むのは小屋であった――を引き払い、御犬屋敷を土岐相模守へ引き渡すと、長成と衆利はクタクタになった。
<終・三日月藩>
元禄十五年十二月十五日。
《作終》